デリダ的郵便について

2007年11月2日 by Eiji Saito

郵便というシステム、そして配達ミスについて。といってもどうにか始動したJP(日本郵便)のことではもちろんなく(いえ、広い意味では関係あるかもしれませんが)、ジャック・デリダの著書を巡っての考察、というより、とりとめのない連想です。

 

一部のクリエイター達から長らく翻訳出版が待たれていた(はずの)、ジャック・デリダ著『絵葉書I』が遂に刊行されました。それにしても郵便葉書の誤配を巡るこの本をいったいどう形容すればよいのでしょう。おそらく既存のジャンルに収まりきらない奇書であるのは間違いないとして、インスピレーションの導きどころか、やもすると怒涛のカオスを引き起こしかねない、そのくせ常用性だけは極めて高い麻薬的な書物です。

 

デリダといえば西欧文化の伝統的な理念をその内側から切り崩してみせた「脱構築」のタームで有名ですが、その受け皿ともなった日本のポストモダンの文脈(文学や哲学はもとより、広く音楽、建築、広告メディアまで)というやつはどうにも煮え切らない代物で、やれ記号だ象徴だと文化の表層を戯れていたに過ぎない印象があります。実際、日本での脱構築の受容も、それこそ誤配されたまま今では記号論とともにすっかり消費され尽くしたというのが大方の実感ではないでしょうか。
(その間にもデリダ本人は遥かな地平にまで脱構築の可能性を拡げていたわけですが)

 

そんなデリダの難解な概念とされる「脱構築」を、一応は実践の場に移したとでもいえそうなのが他ならない『絵葉書』ということになるのでしょうか。その表向きの内容はといえば、デリダの妻と思われる女性へのラヴレターであると同時にソクラテスを巡る深い思索の絶えざる流れといったところなのですが、あまりにも脆い伝達の手段としての郵便に託して語られるのは、「相手に届かないかもしれない」という可能性です。


この誤配や紛失の可能性を常に抱えている郵便のシステム、実のところそのままWEBやメールに置き換えて読み解くことも可能かもしれません。送信先を誤って送ってしまったり、届いたはずがスパムメールとして処理されてしまったり......。相手に届かないかもしれないという一抹の不安、その可能性が内包するものについて、普段なかなか考えたりはしないものです。こうした無駄とも思えるものについて、あたかも詩のように炙り出してみせるデリダの手つきには、やはり感嘆せずにはいられません。

 

ところで、この本の魅力はそうした認識論的な側面だけに留まらないのがデリダの真骨頂といったところ。なんといっても愛すべきは、この曖昧で、決してどこにも辿り着かない茫洋とした感じ。あまたの理論書とは一線を画す全体の物憂いトーンに、どうしようもなく共感してしまいます。おそらくは圧倒的に男の側に多いと思われる、この辿り着かなさへの愛着と耽溺を、世の多くの女性が「優柔不断」という名のもとに一刀両断している(と男が勝手に感じている?)ことでしょう。ここにも一つの誤配が見受けられたりもして。


などと他人事のように言ってみても始まらないこのセンスは、えてして内的な問答になりがちで、するとこちらとしては自己言及の罠に陥っているというべきなのか、どうにも具合が悪いですが。ともかく寄る辺ないままに一人合点し、とりあえずのところ本を閉じるとしましょう。

 

さて、こうして私の届け物もまた秋の風にふわり宙を舞っているようで、どうやらこの連想の行き着く場所もすっかり見失ってしまったようです。

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